第15章 続パヤオ湖畔・故郷 

続パヤオ湖畔・故郷1

健全な皆様と違いまして、私がいかに不健全な生き方を貫いてきたかを

告白します。

1.急ぐときもトボトボで歩いて行く 2.保険契約はしない

3.うまいものはなるべく食べない 4.年金のお世話にはならない

5.友達は貧乏神に限る 6.死んでも、医者にはかからない

7.終焉の地は野末のかげろう

かくして、私は故郷から追い出され、旧友を失い、恩師を知らず

ついに、両親のことも念頭になくなっていました。

こんな私を真人間に戻してくれつつあるのが、現在の伴侶であります。

この伴侶は寺小屋式の教育しか受けていず、私が知る常識も秩序も知識も

なく、ただひたすら野生的に純粋に生きておりました。

純粋とは哀しいかな時に無知でありますが・・。

10年ほど前、この伴侶が私の母親に合いたいと言ってきたとき

私は言下に、両親はもう死んじゃって 自分一人なんだと説明をして

おりました。口からでまかせで、一件落着して難を逃れ、再び、故郷

は念頭から消えていました。

子供が産まれた頃のことです。兄貴が私の居所を探し当てて、電報を

よこしました。30年ぶりのことです。その電文を横目で読みながら、

電話で妻と話しをしています。お互いに一日の報告をし合っています。

・ ・今日、あなたの声、違うな、と妻が動物的な感でただします。

私は、一瞬嘘でごまかそうと身構えますが、妻は自らの疑問を納得

するまで追求を止めません。いつものことです。

・ 俺のお母さんが危篤なんだって、兄貴からね・・

私は相手に心配掛けまいと、他人事のように平然と応えました。

・ ・それで、すぐあいに行くのでしょう。

・ いまさら、会う気はないんだ。

瞬間、電話が切れました。しばらくして、妻の友人から次のような

金切り声の電話連絡がありました。

…メイが泣き喚いているよ。お母さんを粗末にするような男とは

一緒になれないって。いないはずのお母さんがいた。こんな嘘吐き

悪魔男とは一緒に生活できないって。

私はこの瞬間、己の意志ではない、まるで夢遊病者のような感覚で

生地・故郷へ向かっていました。


続パヤオ湖畔・故郷2


死の床で、母が笑って私の話を聞いてくれています・・

・ ・私が小学5年生の頃から、幾度となく家出を繰り返し、そのたび

泣きじゃくって帰ってくるのを、お母さんはいつも黙って迎えてくれ

ていたなあ。この年になっても放浪癖が収まらず・・何処かで野垂れ

死にするまで歩きつづけるよ。お母さんの写真はいつも肌身はなさず

ほら、ぽっけにあるんだ。汗ばんで黄ばんで、もう誰かわからんぐら

いにくしゃくしゃになってしまったよ・・

母の危篤が、30年ぶりに父と兄弟にに引き合わせてくれました。。

親父は「まだ、生きとったか」と数十年来この一言だけを言い続け、

私は私で「ええ、お蔭様で」と一言で応え続けています。

親父は口下手をこの一言に託して「他人様に迷惑をかけて生きる

ぐらいなら、腹を掻っ切ってしまえ」と言いたいのです。

不肖のデキソコナイの息子がまだ生き長らえているのに、ほっとして

いるのでしょう。

兄は開口一番、「戸籍謄本でお前の生存を知った。お前は無縁仏に

されていたんだぞ。タイの女性と一緒になって、子供までいるのか。

・・今度は道を外すなよ・・」と幾分か震え声です。

そこへ、ドイツで胸部外科医として大成していると聞いていた弟が

帰国してきて、縁戚の医師らが「あと半年の寿命」を告げたときに、

いえ、あと一ケ月でしょうと言い渡しました。

母は弟の診断どおりに静かになりました。

それにしても、弟の平然とした口調に似合わない、着ている服が何と

もよれよれなのです。


続パヤオ湖畔・故郷3


・ ・・ご心配くださった、よれよれの服の事ですが、私が初めて

ドイツへ行くとき、兄さん(私の事)が5着新調してくださった

スーツの一つですよ。もう、30数年になりますか。5着ともまだ

普通に着てます。当時より太ったので少し窮屈ですが・・

封書には、館というにふさわしい雰囲気のホームを背景に家族の

写真が同封されています。丸々太ったゲルマン民族と思われる奥方

とのっぽに育った子供たちに囲まれた弟が中央にちょこんと座して

おります。

何回も弟の文章を読み返すうち、気がついた事があります。

大事に着ているという日本人的な表現ではなく、普通に着ていると

いう感覚をドイツ気質だとするなら、日本人の顔をしたドイツ人が

いても不思議ではないように思えたのでした。

飛行機がインドシナ半島に入ると、まもなく赤茶けた流れのメコ

ン川が見えてきます。私はまもなく、お袋から開放されるような気

がしています。毎年、新しくする手帳の奥に仕舞うよれよれになっ

たお袋の写真を赤い川に流そうと思い付いたからです。

パヤオ湖畔近く、我が妻子が住む屋敷の、裏に続く畑からは緑の

木々と蒼い山脈しか見えません。

その一画に、草葺きのあばら屋を建て、仙人道場と

名付けました。床は竹を短冊に割り、敷詰めました----------

壁を板張りにすれば北タイの山岳民族の家になり

竹組みにすればラオスの少数民族の山小屋風

になります。しかし、壁を張るのは止めました。

写真をクリックすると拡大します

アジアの台地チベット高原へ、果てしなく続くかの蒼い山脈を見

入りながら、この仙人道場から弟への返信を思い浮かべています。

・ ・お前が自然の厳しさから生命を守る館を建てたとするなら

私は自然に同化するねぐらを立てた。明日吹き飛んでも朽ちても惜

しくはないが、私にとっては我が人生の結晶のようだ・・。


続パヤオ湖畔・橋を渡る


知らない橋を見掛けると必ず渡りたくなります。

しかし、一気に渡りきる勇気はありません。いつも、中ほどで一呼吸します。

知らない町へ辿り着く興奮と不安が葛藤するのです。

引き返そうか、今なら間に合う、とか思案してしまうのです。

いったん渡りきってしまうと、今度は引き返すのが、とても苦痛になります。

かくして、2回も離別されました。一緒に歩いていることを忘れてしまう

か置き忘れてしまうのです。思い出すとぞーっとします。

長い間、橋に係る私の個人的な嗜好が理解できずにいたのですが、現在の

妻子と接していると、何となく分かってきたような気がします。

引き返すのが楽しくなってきたのです。妻子のもとへ帰れる嬉しさを実感で

きるようになりました。

私が、年に何回かタイと日本を行き来するようになって、感覚が大分変わ

ってきました。東北の方が東京へ出稼ぎに行くような、東京住まいの方が帰

郷するような感覚ですから、私にとってパヤオは外国ではないのかもしれま

せん。だから、外国であるバンコックもパタヤも素通りしてパヤオへ直行で

きるのでしょうか。

現在、単身生活者ですが、遊びで外泊することは「もう」ありません。

掃除洗濯も上手になりました。栄養失調にならない程度の食事も作れるよう

うになりました。ラーメンを食べに週一度外食しますが、自炊生活にもなれ

ました。

誰かほめてくださいませんか。


続パヤオ湖畔・完


「霞ケ浦が壊れてしまう」と悲観していた、十数年前

タイの友人から「北部タイには、霞ケ浦に似た湖があるよ」と慰められ、

しぶしぶ向かったパヤオ湖。その舞台で・・

現世利益に明け暮れねば、今日を生き抜く糧を血眼に探さねば、餓死

(少し大袈裟)してしまう女性が、なんの疑いもぜず、確たる目的もな

い私の歩調についてきてくれました。

そして、子供が生まれ、はや3才になりました。

この春、パソコンが何なのか分からぬまま、迷い込んだのが、この

PC−VANナビスクールです。

旅の途中の、恥の書き捨てに似た気持ちで「霞ケ浦叙景」を落書きし

たら、いつもの習性で「素見客(江戸吉原言葉でヒヤカシと読みます)」

の素通りを発揮して、さっさと別の知らない町へ消えるつもりでいまし

たが、皆様におだてられて(本当かなあ)、すっかりその気になり、霞

ケ浦叙景を忘れ、脱線したままパヤオ湖畔の話をながながと綴っており

ました。 ただ今、数ヶ月を楽しく居候させていただき、ただ食いさせていた

だいたような気分に浸っております。

しかし、パヤオ湖畔と題しながら、そのパヤオ湖の風景を、私はまだ

一度も紹介しておりません。

今日、本屋さんを覗き、立ち読みさせてもらいましたが、観光案内書

の類には「パヤオ県」はもちろん「パヤオ湖畔」はみあたりません。

内心ホットしました。

チェンマイの雑踏やチェンライの騒音と違い、静かなたたずまいの古

都パヤオ市とその湖畔。 霞ケ浦湖畔と同様、私の人生舞台の一部に

なったパヤオ湖畔。

何を隠しましょう。今ではパヤオ湖畔を一人占めしたいのです。

こんな素敵な湖を皆様に紹介するほど、私はお人好しではありません。

<追記>

白状しますと、私にはまだパヤオ湖そのものを描く技量が無いのです。

今でも、週に一度早暁の霞ケ浦湖畔を歩きます。ゴミ拾いです。

ボランチァ活動するほど閑はありません。私の仕事なのです。

ありがとうございました。